昭和五十年九月二十二日    朝の御理解御理解第十三節  神は向こう倍力の徳を授ける。御理解第十四節  神は荒地 荒屋敷をお嫌いなさる。神は向こう倍力の徳を授けると一生懸命に勇ましい信心をする人があります。実に神様に食いつかんばかりの--にして御祈念をする人があります。所謂迫力のある信心、人の真似の出来ない様な辛抱強さで信心する人があります。だからそうゆう信心をすることが、神は向こう倍力の徳を授けるとゆう亊はないと言えるですね。その向かう精神、向かう心です。その心が昨日の御理解を頂きますと、神の気感に適う向かい方、神の心に適う向かい方をさせて頂いて、向こう倍力の徳をとゆうのではないでしょうか。だからこれは数とか、量とかゆうのではない、ね、自分は十遍参ったから参ったがとの徳を受けた、おかげを受けたとゆうことではなくて、問題は私は本当にそれを真心とか、真とかもうします。そうゆう例えば神の気感に適う、心に適うた向かい方をさせて頂いて、はじめて徳を受けるなと思いますね。その証拠には、もうそりゃ御用も出来なさる、お参りもしっかりできなさる、もう何十年と続いているそうゆう人でも、徳をうけていない、受けていると思えない人が大変多いですね。そこで私は今日は御理解十四節を、神は荒地 荒屋敷をお嫌いなさるとゆう亊をです、私は今日この荒地 荒屋敷とゆう亊でなくて、神様がお嫌いなさるとゆうところを今日はいただいとります。神様がお嫌いなさるような向かいかたではいくら向いても徳にはならないと思うですね。
それでも御利益欲しさに、一生懸命に祈った、一生懸命に参った、修業もしたけれども、御利益を受け取るかもしれませんけど、いや、それは受けます。けれどもその倍力の徳とゆう亊にはならないとおもいます。
私共がやはり頂きたいのはお徳です。そこでなら神の気感に適うた信心とゆう亊を、昨日はまあ、いろんな角度から頂いたとおもいます。だから、せっかく神様に向かうならばです、お徳の受けられる様な向い方をしなければいけませんのですけれども、それはなかなか、なんとゆうですかね、個人差とでももうしましょうか、百人百様とでももうしますか、結局真似ではいかん、各人の持っておるもの、しかもそれが他に、これがこの人の独壇場だといったようなもの、それが発揮されるよい意味においての、その独壇場的なものが発揮される。例えば私共のように、もうそれこそ、何にもできない、もう本当に人間的にもつまらない、けど昔よくこんなことばをつかったんだけれども、そんな言葉を親先生使いなさってはいけんとゆう注意をみなにうけましたから、その後あんまり使いませんけれどもね、もう私ぐらい、ふうたらぬくいにんげんはおらんとおもいます。ふうたらぬくいとこの辺でよく申します亊はね、なんとゆうでしょうか、だらしがないとゆうことでしょうか。まあ、はきはき出来ないということでしょうか。まあとにかく悪にです。こん奴ばっかりはふうたらぬるかと人が十仕事が出来るときには、人の半分も出来ん、そうゆうときにはふうたらぬくいといいます。ふうたらぬくいとゆう言葉が、あまりいかんとゆうので使いませんけれども、私自身も本当にわたしはもう、私ごたるふうたらぬくい人間はおるまいと思うほどです。ところが神様が、わたしのそのふうたらぬくいところに眼をつけなさった様におもうです。そのふうたらぬくさに、いわば--したところにわたしがもし、私が徳を受けておるとするならば、そこに神様が、お徳をくださった、とおもいます。それはもう子供のときからずっと思ってみて、本当にふうたらぬくい、自分のごたるふうたらぬくいことをしょったっちゃ成功はできん、もうこれは神様に縋るより外はない。これは子供の時からこの思いが非常に強かった。もう何をさせてもふうたらぬくか。とにかく私の隣に叔父が居りましたが、まあたいへん可愛がってくれました。もうその叔父がゆうとうりになるわけです。ね、それで人が見えますと、私げのこの甥はチョイと私がゆうとうりにすると、それが自慢でした。そのかわり云うとうりしたあとには必ず、お菓子、おやつをもらうわけです。ね、そこに胸の上にてをあげてから寝れといわれるとちゃんと仰まかせになってから、こうやって寝る。例えば私ところの孫達に言ったちゃ、チョイとおやつをやるけんで、寝れちゅうと寝るかもしれませんけど、すぐおきあがりますよ。ところがその叔父が起きてよか、と言うまでは起きらんとです。で、そのまま寝てしまう亊があったです。それでばばが言いよりました。叔父は増太郎と言ってましたが、もう、増さんばかりは、こげな子供ば、そげなむごい亊ばっかりしてと、ばばが腹かきよりました。それをかすかにおぼえとります。そげんふうたらぬるかったです。嫌と言いきらんとです。腰を揉め、足を踏んでくれと言うとです。もうよか、というまでは止めきらんとです。そして、叔父やら、叔母やら腰を揉んで足を踏んで子供ですから、上にのって踏むわけですよ、腰を。そうするとちゃんと眠ってしまうわけです。けどこっちはいつまでも、おぞむまで、あらまあだ踏みよったかちゅうまで踏みよったわけです。その代わりやっぱりおやつが多いです。と言う位にもう一時が万事にそのくらいにふうたらぬくかったです。段々長ずるにしたがってです、まあ例えていうならば飲みにでもいきますと、自分が一番口に金をださにゃ出来なかった。あの飲みにいってから人の財布のなかどんみてから巾着明ける奴がおります。あれがフルフル好かじゃったけんで、金がなかと、小母さん、わたしのとにつけといてくれんの、と言うて そして帰ってから、俺はこげなこっちゃ儲けだしきらん、と後悔しよるとです。ああこげなふうたらぬくかと思うて、ほんとうに思うとりもしたが、なら---私が所謂、本当の信心をもとめて、本当の信心をさせていただかねばと、言う亊に気ずかせていただいて、神様から色々とお知らせを頂くようになったときに、もし私にふうたらぬくさがなかったら、もう途中でやめとるです。そりゃ、もう本当に神様から御指図を受けるはじめは、もう理不尽な亊ばかりです。そげな馬鹿な亊出来ますもんか、そんなことしよると人が笑います、とゆう話せにゃおられんようにです、やっぱり泣く泣くでも神様が右とおっしゃれば右、左とおっしゃれば左と言う風に、それをぎょうじきった、-したところにです、私は、そういう、いわばむかいかたです。神様にそういう風な向い方をさせて頂いたところにいうなら、それは人間的にはつまらん、なんにも出来ん、頭は悪い、というようにありますけど、神様が私のふうたらぬくいところに、自分の一番欠点だと思うところに、眼をつけなさった。そして今考えてみると、私のあれが一番長所だと、今に思うのです。だからもうね、きっちとした信心をほんににあの人が、あげん素晴らしい信心してござるばってん、どうしておかげうけられんとじゃろか、と言う人があるでしょうが。神様というおかたは不思議なおかた、いうならば神様がお嫌いなさるような、神様に愛されるような、その反対はそうです。愛される信心をしなければいかん、神様に愛される心に、打ち向かはなければいかんのです、だからそれぞれに頂いておる、いうならこれは神様に、ここんところはつまらんけどつまらんけど、ここんところは神様に喜んで頂くだろうと、自分に感じます時に、それをもって打ち向かうと、神様がうてば響くように。
昨日、青年会が一夜信心実習会を致しました。丁度一時間ばかり私の話を聞いていただきました。そして後また一時間ばかり、だから二時間あまりお話をさせて頂きましたけれども私は天地が繋がる道とか、天地の大道と本当の誠の道とか、お繰り合わせを、お気付けという中から生まれてくるという話をしました。日々のお繰り合わせ、ところが本当に神様のお繰り合わせをいただく、ところが一寸間違う、間違うと神様がコラコラとお気付をくださる。これはもう人間ですから、そんな完璧な人間はおりませんから、やはり調子に乗って、つい乗り過ぎる亊があります。その時に、おいおいというて、気を付けてくださるのがお気付けです。それは損をする様な亊でお気を付けてくださったり、痛い思いをさせてからでもお気付けを下さったり、それこそ心に悩みが出来る、そう言うた亊をさせられるお気付けです。だからそのお気付けをいただけん様では、つまらんという亊をもうしました。わたしだんちょっともお気付けは頂かん、そういうにはもう見込みがないから、つまらんからお気付けをくださらんとです。だからそう言うのはお繰り合わせもいただかんです。まあお繰り合わせ、お気付けという亊について、色々、具体的な亊だったけど、話ましたけど、まあそのことは申しません。
お繰り合わせとはどういう亊か、例えば金銭のお繰り合わせ、とても今日は金が入って来る筈がないけど、どうでも金がいる。お繰り合わせを頂くと思いもかけないところから入って来る、これがお繰り合わせです。
これは金銭だけの亊ではありません。いっさいのものがそうです。テレビでは明日は雨が降るけど、どうでも明日は雨が降ると困るからお繰り合わせをお願いしとくと翌日にくり返してくださる。それをお繰り合わせという。そういうお繰り合わせの連続を頂かにゃいかん。ずうっとお繰り合わせを頂かにゃいかん。一日を振り替えってみると、あれもおかげであった、これもおかげであったと思わせて頂くことが沢山あります。ところが人間生身をもっておる、所謂不調法なところが沢山ございますから間違うていきよる。そのときには痛い思いをさせてからでも、だからあ々痛か、というようなこっちゃつまらん、もうあ々痛かというのは、自分の心に苦しみとか、悩みが起こった時には、すみませんとお詫びする以外ないです。
いうなら鴨居で頭を打つというから鴨居のほうども叩く人が有るようじゃつまらん。なぜ痛い思いをしなければならないかという亊を、思はせていただいて、所謂まえのみちに戻らせて貰う、だからお繰り合わせと、お気付けのなかに本当の間違いのない道を辿らせて頂くのだと言うことなんです。だからもう神様がね、もうあん奴は、あげな悪かことしよるから、もうあれにはおかげはやらんと、まあこれは別の話ですけど、なら今日は私のつまらない人間としては本当につまらん私だけれども、神様に取り柄というたら、私のふうたらぬくいところが取り柄じゃと。外の悪かところはふうたらぬくかとこに免じてお許しを頂いとるという感じがいたします。或るひとがいいました、もうありゃしらごつばっかりいうたからもうまんむごうしらごとを言うばってんか、何とはなしに、その人は愛されるものを持っている、だから、あれからなら騙されたってよか、というごとむごう騙すひとがある。愛されなからだまされて愛されとる人がある。なにかそこに良いところがあるわけです。
石川五衛門が死にました。そしてその地獄か極楽かの道を辿らして貰いよった。ところが前にいきよんなさった、ばばさんがもう、それこそ素晴らしい念仏袋を後に担いでいきよんなさる。ところが石川五衛門は、それこそ南無阿弥陀仏なんか言うた亊はなかった、只ほんな死ぬとき南無阿弥陀仏と言っただけだったので、ほんな小さな南無阿弥陀仏一つだけだった。ところがそのやっぱり盗癖があった。死んでから先にもやっぱり、がめたり、盗ったりすることがちゃんと身についている。だがそのばばさんに言うた、「ばばさん、ばばさん、あんたはそげな大きな荷物を抱えていきよると重かろけんで、私がつば持たんの、私があんたがつば担って行ってやろう」と言うて、だまくらかしてその沢山の荷物を取り替えた。
そして閻魔さんのまえにいってから調べられたときには、これは私のでございますというてから、大きな袋に入っている念仏をだした。ところが閻魔さんがこれは空念仏じゃからお前は地獄へ行くと言はしゃった。石川五衛門のはたった一つじゃけど実の有るとじゃけんで、婆しゃんは極楽往きをさしゃった、という話があります。けどこれは笑い話の様ですけどほんな亊です。今日私がはなすのは、これはこれにぴったりです。例えば泥棒しとったっちゃです、その泥棒そのものは神様の気感に適はない亊には違いないけれども、まあまあそげん大して悪かこっちゃなかという位じゃなかろうかと思うです。
人間の世界では、泥棒する亊はいけない亊として罰せられます。ある新興宗教の教祖と言う人があるデパ-トへ行ってから品物をごっそりと物ばもってきなさった。なしかというともう平気でもって来なさった。これはどういう亊かというと、一切が神様、仏様の御物だからというわけです。
それがほんなことなんです、実際は。只人間の世界ではそれに金をやらにゃ持ってこれんごとなっておるけれども、本当言うなら、いつも金光教でもお話がでよる、神様の御物じゃから、ごろごろデパ-トから持ってきたちゃ大した罪にはならんとです。石川五衛門がやっぱりそうじゃった。大した罪になっとらんじゃったばってんが根がやはり悪人であったから、ぎりぎりのところで極楽へ行く筈の五衛門がやはり地獄にいったと言う話です。一つの念仏でも誠があった、芯があった、重みがあった、ですからね、神様の気感に適うとかという亊はです、私は決して非常識の亊をせろとか、不道徳の亊をせろとか言う亊はございませんよ。けど私は超常識とか超道徳というものは場合によっては、常識的ではないような、道徳的ではない様な亊がございます。まあその説明もまあこの位にしときますがです。問題はね、その倍力の徳を受けるということは神様の心に適う心で向かうものでなからねば、お徳は受けられないということです。-の神様がお嫌いになるということ、だから神様のお嫌いになる心をまず、私はとりのぞかせて貰うて、神様に愛される心を持って神様へ向かはなければいけないということを、その向かはして頂く道中には、必ずお繰り合わせがあるということ、お繰り合わせに対して、反対にお気付けが必ずあるということ。それは人間だからというてと、決して間違いがない道ばかりを調子に乗り過ぎらんという亊はないけど、間違いよると神様がこらこらと言うて、お気付けをくださる、だから真の道が開けてくる。真の道を歩くから真の信心ができる。真の徳がうけられる。真のおかげが受けられるということになるのです。まあ今日は極端から極端の話をさせて頂いたんですけれども、問題はです、神様の心に適う心で向かうときにはじめて倍力の徳が授けられるという亊になるのですよね。                 どうぞ